Defining a new ethic for technology Portrait photography: Webb Chappell. Illustration: Caroline Blanchet/Ptitecao Studio with photography by Jean-Luc Bertini

テクノロジーに新たな倫理を

2019年5月

政治哲学界のロックスター、マイケル・サンデル氏。ハーバード大学での一般公開講義には数万人が押し寄せ、その著書はミリオンセラーとなり、進行役を務める討論番組は全世界で放映されています。テクノロジー業界における倫理に関する課題について、そしてデジタルの破壊的な力を、いかに社会の共通善に向かわせることができるのかについて語ります。

富士通フォーラム2019 フロントラインセッション講演者

マイケル・サンデル氏の経歴は輝かしいものです。ローズ奨学生としてオックスフォード大学で学んだ後、1980年にハーバード大学に入学。現在では同大の栄誉ある教授職に就いています(Anne T and Robert M Bass Professor of Government Theory)。著書は27ヶ国語に翻訳され、『それをお金で買いますか: 市場主義の限界』や『これからの「正義」の話をしよう:いまを生き延びるための哲学』などのベストセラー書も含まれています。

知識人でありながら、その名声は名だたるスターも羨むほどです。

2009年にBBCラジオの名物番組である「リース講義」に登場するや否や、同ラジオ番組のThe Public Philosopherというシリーズにも出演し、庶民の思想家として名を馳せました。その講義は、ロンドンのセントポール大聖堂、シドニーのオペラハウス、ニューヨーク・セントラルパークの野外劇場をも聴衆で溢れさせています。

「正義」についての討論はハーバード大学初の無料オンライン配信となり、各国テレビ局でも放映され、全世界で数千万の人々に視聴されました。2010年、中国版ニューズウィークはその年の「最も影響力があった外国人」にサンデル氏の名を挙げました。



ブラジルで制作された討論番組は同国の1,900万人が視聴し、日本でもNHK で「倫理」をテーマにした討論が放映されました。韓国ではソウルの延世大学で行われたライブ講義に過去最大の14,000人が参加しました。

変貌するテクノロジーの倫理

デジタル・テクノロジーに関わる倫理的な問題がクローズアップされる現在、サンデル氏はその分析をこの時代の倫理と信頼のあり方に向けています。

「アルゴリズムによる判断は公平なものなのか、ロボットは人に取って代わるのか、誰もが問いかけはじめています」

「テクノロジーが市民生活や幸福な暮らしに果たす役割について、社会全体で議論する時がやってきた」とサンデル氏は話します。「テクノロジーはいまや暮らしに役立つ道具を超えた存在となっており、人々はそれに気付き始めています」。

その潜在的意味は大きく、「今日のテクノロジーは、コミュニティ、民主主義、人間性に関わる倫理的な問題について、根本的な問いを投げかけている」と話します。

その主張の正しさはすぐに明らかになります。ビッグデータとAIを例に、テクノロジーをめぐる倫理的な問題が厄介で広範囲に及ぶことを指摘しています。

「アルゴリズムによる判断は公平なものなのか、ロボットは人に取って代わるのか、誰もが問いかけはじめています。高性能コンピューターの思考力は人間よりも優れているのか。もしそうであれば、それは憂慮すべきことなのか。ビッグデータやソーシャルメディアの時代にプライバシーは廃れたものとなってしまったのか、と問いかけています」。

IT業界以外も含めた社会全体にとって、「ビッグデータとソーシャルメディアの時代は、市民社会にとって良いものなのか、それとも悪いものなのか」という懸念があるとサンデル氏は話します。

「これは今日、私たちが直面している最も根本的な倫理的課題です。テクノロジーの影響がそれを加速させています。テクノロジーは、これまで大体において人の望みを実現する道具であって、公共の利益にも役立ってきました。しかし、これからは私たちの暮らしや人間関係のあり方を変える力となる恐れがあります」。

引き裂かれる信頼

実際に今、テクノロジーによって社会の行動規範は変貌しており、不安はもう現実のものになっているともいえます。なかでも重要なのがプライバシーの問題だとサンデル氏は指摘します。

「従来のプライバシーの概念は、最新技術やビッグデータに沿ったものになっているでしょうか。あるいは、新たな考え方を定義しなければならないのでしょうか」。

2016年のアメリカ大統領選挙におけるケンブリッジ・アナリティカ社やロシアの影響に関する議論に見られるように、世論はテクノロジーの進化に追従できなくなっています。

「個人情報が思わぬかたちで利用されていると人々は感じています」。つまりこれは、プライバシーが失われる憂慮すべき事態なのです。

企業や行政の都合で情報が改ざんされるという懸念の他に、プライバシーの侵害により失われるものがあります。それは信頼です。「信頼は、テクノロジーの進化の犠牲となっています」。そこには2つの動向があるとサンデル氏は指摘します。

「まず、大手IT企業の信頼失墜で、企業に対する世間の不信が広がっています。最近、大手ソーシャルメディアで個人情報が漏えいするという事件がありました。しかし、発信した情報が選挙キャンペーンの操作や民主的プロセスの破壊のために利用されていると気付いていた人はほとんどいませんでした」。

さらに彼は続けます。「もうひとつの動向は、個人と個人の間の信頼で、これもテクノロジーの影響を受けています。個人間の信頼は共同体の発展の基礎となるものです。健全な社会生活や帰属意識、そして市民生活には信頼が欠かせません。社会にとって、生まれも育ちも異なる様々な人々が互いに信頼しあうことが大切なのです」。

しかし、人やモノをつなげるテクノロジーが社会を分断させています。



「テクノロジーによって、私たちは微妙な見解の相違で区切られた小さな枠の中に閉じ込められています。社会が分断して、互いの信頼が弱まっています。これは共同体を傷つけます」。

「信頼に対するテクノロジーの影響について考える際には、信頼本来の重要性とテクノロジーの弊害に分けて考えることが重要です。一方では、大手ソーシャルメディアやテクノロジー企業に対する不信感の高まりがあり、もう一方には似たような意見を持った人からのみ情報を得て、意見を交わすといったように社会が分断する方向に向かっているという事実があります」。

「これからテクノロジーの行く先を決めるという意味で、市民もIT企業も当事者意識を持つべきです」

幸いなことに、この状況は変えることができる、とサンデル氏は話します。「プライバシーが失われることで信頼が損なわれ、テクノロジーの未来について不安が広がっています」。

しかし、それがいつまでも続くわけではありません。「誠実なIT企業は、プライバシーを尊重する必要があります。消費者として、そして社会の一員として、私たちが信頼を寄せるのはそうした企業であり、そうした企業が生み出すテクノロジーなのですから」。

テクノロジーの信頼を再構築

この流れを変えるにはどうすれば良いのでしょうか。テクノロジーの未来への信頼を取り戻すにはどうすべきなのでしょうか。

テクノロジーに新たな倫理をうち立てることだ、とサンデル氏は語ります。そのためには、まず意識を変えていかなければなりません。

「これからテクノロジーの行く先を決めるという意味で、市民もIT 企業も当事者意識を持つべきです」と彼は話します。「テクノロジーは天気のようなもので、我々にできるのはただそれを受け入れることだけ、というような気持ちは捨てなければなりません。テクノロジーは道具箱のようなもので、そこには様々な洗練されたツールがありますが、全ては目的を達成するためのものでしかありません」。

「道具に目的を決めさせるのではなく、道具は使いこなさなければいけません。そう考えることが自由につながるのです。テクノロジーに惑わされて、それを忘れないようにしましょう」。

「手綱を取るべきなのです」と彼は強調します。「人間が物事を選び、判断する、そして、倫理や社会の利益を重んじることが正しい判断へ導いてくれます」。

現状は、共通善を重んじる姿勢の対極にある、とサンデル氏は話します。「IT企業の経営者は、共通善を求めてテクノロジーを開発する責任があります。そうすることでプライバシーやコミュニケーション、市民社会を損なうことなく、テクノロジーの力を人類の繁栄や共同体のために役立てることができるのです」。

倫理について議論する

公共の利益を後押しすることはIT企業の努めではあるものの、企業がそれを自発的に行うことはないとサンデル氏は見ています。IT業界が共通善に取り組むためには「人々と交わす議論の質が重要です」。

「どんなに誠実な企業でも、自分たちだけで共通善とは何かを決めることはできません。テクノロジーの目的や倫理的ジレンマについて、そしてその問題への対処法について社会でしっかりと議論していく必要があります」とサンデル氏は話します。

それは社会的に影響力のあるテクノロジーの開発者とその影響を受ける一般市民との間で交わされるべき議論です。

「IT業界だけでは問いに答えることはできません」とサンデル氏は話します。「対処法を見つけるには、テクノロジーが持つ倫理的な意味について、社会全体で活発な議論を重ねていく以外に他ないのです」。

「テクノロジー企業は、どのようにテクノロジーが社会の共通善を実現する力となるかをより広く社会に問いかけ、議論するべきです。それを良しとする企業こそが、真の責任ある企業と呼べるのです」。

マイケル・サンデル氏についての伝説的エピソード

1971年

当時カリフォルニア州知事でのちにアメリカ大統領となるロナルド・レーガン氏を好物のジェリービーンズで誘い、母校の討論会に参加させる。

1974年

ヒューストン・クロニクル紙ワシントン支局の夏期インターン生時代に、連邦議会と最高裁で行われたリチャード・ニクソン大統領弾劾の公聴会を取材する。

1989年

世界的人気の米国アニメ『ザ・シンプソンズ』にサンデル氏をモデルにしたとされるモンゴメリ・バーンズが登場。サンデル氏はそれを都市伝説だと一笑に付すが、アニメ作家の多くはハーバード大学で彼の講義を聴講している。