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国民のデジタル・アイデンティティを育てるエストニア

2019年8月

1990年代の独立以来、エストニアは国を挙げたデジタル化の取り組みにおいて群を抜いています。世界一の電子国家を目指すこの国の政策を支えるデジタル戦略について、同国のリード・デジタル・アドバイザーのマルテン・カエバッツ氏が語ります。

SkypeやTransferWiseなど革新的デジタルサービスの発祥の地、エストニア。GDPの7%を3,700のテクノロジー企業が占有し、労働人口の4%がスタートアップ企業に所属、かつそのうちの4社は2018年実績が10億ドル以上の優良企業となっています。

国土はカリフォルニア州の1/9、人口はシンガポールの1/5でありながら、この国は『世界一のデジタル社会(ワイアード誌)』、『世界一テクノロジーに精通した政府(アトランティック・マンスリー誌)』といった賞賛の声が絶えない技術大国でもあります。

そこでいま脚光を浴びているのが、過去4年間、情報社会とイノベーションに関して、エストニア政府のデジタル・アドバイザーを務めているマルテン・カエバッツ氏です。都市設計を学び、さらにシステム設計に転身した彼は自身の役割について「行政の立場から明日の技術のあり方を俯瞰的に構想すること」と話します。このところ過激なほどに国家のデジタル化を進めているエストニア。彼はそうした動きの全体像を知る絶好の立場にいると言えます。

きっかけは国家独立

エストニアのデジタル国家建設の流れは、1991年8月20日、旧ソ連からの独立に端を発します。当時の政府は、市民サービスや行政機構などの国づくりを、なにもない状態から始めなければなりませんでした。「1990年代のエストニアは貧しく、公共部門を効率良く構築するためのインセンティブが必要でした」とカエバッツ氏は話します。

同国はもとから数学やコンピューターサイエンスの教育水準が高く、1960年、旧ソ連の最初のサイバネティクス研究所が設立されたのもエストニアの首都サリンでした。同研究所は現在も活動を続けています。そこで国家建設の唯一の可能性がデジタルシステムにありました。

「とても初期の段階から、政府は牽引役を務めました」

歴史的につながりが深いスエーデンやフィンランドも、その方向性を積極的に後押ししました。同国とヘルシンキを結ぶ海底ケーブルが1990年代に開通すると、インターネットへのアクセスが始まり、他の北欧諸国に続いてエストニアはファックスから電子メールの時代に入りました。

また、政府要人も大きな役割を果たしました。「とても初期の段階から、政府は牽引役を務めました」とカエバッツ氏は言います。例えば、当時の外務大臣でのちに大統領となったトーマス・ヘンドリク・イルヴィス氏は、自称『テクノロジーおたく』で、教育機関へのコンピューター導入を推進しました。実際、1999年までに全ての学校はオンラインでつながることになりました。

政治家の年齢がそうしたデジタル化に一役買っているとカエバッツ氏は考えています。「エストニアには若い政治家の伝統があります。1991年の初代首相は33才でした。大半の国では政治家といえば、コンピューターとは無縁で、デジタルテクノロジーの本当の意味を理解していない人ばかり。理解していなければ、物事を変えることはできません」。

道を拓く

当初、必要に駆られて始まったエストニアのデジタル化の流れは、いまや常識となっています。「政府機関ではこの10年間、書類に紙を使ったことはありません」とカエバッツ氏は話します。「結婚や不動産売買のような場合を除いて、全てはオンラインで済んでしまいます」。

デジタルが普及し、仕事や生活の基本となっていることを示すため、彼はこう説明します。「2000年から、エストニア政府では会議がデジタル化されています。これは世界ではまだ異例です。しかし、これによって余計な時間を短縮することができます。以前は50から60の決議に平均5時間を費やしていた会議が、昨年になって15分ほどになりました。昨年8月には22秒で50の決議がなされましたが、これは歴代最短です」。

「こういうことができるのは、誰もがデジタルシステムで最新の書類を共有し、異議がなければ、議案をそのまま通すという原則が実行されているからです」。

行政サービスも同様のスピードと効率を挙げています。「これまで税の申告に費やした時間を合計しても、おそらく15分にも満たないだろう」とカエバッツ氏は話します。「エストニアでは税申告にかかる時間は、年間平均で3分です。わたしの場合、今年の納税申告は18秒で終わりました」。

「たいていの国は、構想を持たずにデジタルサービスをただ提供しているだけです」

デジタル化の普及がもたらす効果は、とても偉大です。

カエバッツ氏によれば、公共と民間のデータベースをつなぐ『Xロード』システムが果たした時間短縮は、2018年だけで2,400人年におよびます。「あらゆるものがデジタル化されると、ものの見方も変わる」とカエバッツ氏は言います。例に挙げたのは、カリフォルニア州です。「シリコンバレーにはグーグルやフェイスブックがあって、先端的なイメージがありますが、行政機関の窓口では本人証明をするのにガス水道電気の領収書を提示しなければなりません。これは馬鹿げた話です」。

「たいていの国は、構想を持たずにデジタルサービスをただ提供しているだけですが、国民と政策の接点である公共サービスはとても重要になります。しかし、それだけではありません」。

「どの国でも、全てがデジタルになる時代のものの見方や考え方を一般に普及させることが最大の課題になるでしょう。エストニアの場合、行政文書のペーパレス化にはほぼ15年かかりました。官僚機構に始まり、社会全体を捲きこむ大きな挑戦です」。

こうした仕事を進めるには信頼がかなめです。「信頼構築が全て」とカエバッツ氏は主張します。「そこで手を休めることはありません。具体的に言えば、政府が国民から、より信頼されるように、国民を裏切らない情報システムを構築するということです」。

「それにはまず、個人情報の活用でどのようなことが可能になるのかについて、国民を啓蒙し、さらにデータシステムをしっかり管理していかなければなりません。中央集中型のシステムはそれには不向きです。個人漏洩の問題などを考えると、それは問題外です。中央集中型ではなく、分散型にしておけば、何か小さな問題が起きたとしても、管理しやすくなります」。

エストニアのデジタル化施策を根底で支える『Xロード』の大原則もそこにあります。「このシステムを使えば、インターネット経由で安全にプライバシーを保ちながら行政機関の情報を共有できます。しかし、全ての情報がひとつの場所に集められているわけではありません。そこが重要な点です。システム障害やサイバー攻撃があっても、そこで失われるものはなにもありません」。

「現在、国民の個人情報は、形式の異なる651のノードに収められています。もしこれに攻撃をしかけるなら、百万分の1秒の間に651のノード全てを襲う必要がありますが、それはほぼ不可能です」。

明日のAI倫理に向けて

エストニアをはじめ、いま世界の政府を悩ませているのが、AIをどう扱うべきかという問題です。この問題についてカエバッツ氏はAIポリシーの策定にとりかかり、2019年初頭に制定されました。このポリシーはAIの扱いについて、現在ある2つの道とはまた別に、第3の道を示すものだと考えています。

「いま世界にはデータガバナンスのコアストラクチャーが2つあります」とカエバッツ氏は説明します。「中国が使う中央集中型の情報システム。そして米国が採用している、フェイスブックやグーグルなど基本的に企業が管理するかたちのシステム。ヨーロッパの視点からいえば、それらはどちらも良いとはいえません」。

「人を中心に据えた国の統治が可能であることを示したいのです」

「わたしたちは、デジタル空間で人権を保護するエコシステムのようなかたちを考えています」。エストニアはいま、IEEE-SA (Institute of Electrical and Electronics Engineers Standards Association)と緊密に連携しながらAI倫理の基準を定めています。

「世界に先駆けてAI倫理を法規制に取り込む作業を進めています。AIシステムは倫理基準を満たさなければなりません。この取り組みはAI倫理の具体的な指針となるでしょう。デジタル空間での人権保護を含め、わたしたちは人を中心に据えた国の統治が可能であることを示したいのです。市民ひとりひとりが自分のデータを所有し、それを自由に管理できる、そのようなエコシステムを作りたい。その情報管理のモデルは、経済、社会、政治、民主主義の全てに適うものであるということを示したいと思っています」。

•マルテン・カエバッツ氏は2019年ヘルシンキでの富士通ワールドツアー基調講演に登壇